私の保育園の連絡帳公開にあたり、まずは昭和62年に母の妹が書いた随筆の一部をご覧ください。

それにより、父の旅立ちが本当に突然であったことがわかり、その後の連絡帳の内容と紐付いてきます。
なお、父が亡くなった年(昭和46年)の当時の情景・名称で載せています。
叔母の文章力のおかげか、生々しい文になっているので、「人の最期」が苦手な方は遠慮なく飛ばしてください。
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〜落花〜
「今、お父さんが心臓に発作が来て、救急車で入院したから、村井の国立病院の方へお願いね」
と、姉からの電話は早口に、激しく切られた。
2.3日前のこと…「風邪気味でなかなかはっきりしないので困る」ということで
「もし入院でもする時は、お手伝いに行くから」という下話はあったものの、あまりにも激しい電話に戸惑った。
実家の兄の運転する車は、動揺する心を抑えながら松本へと急いだ。
9時消灯の病室の中は薄暗く、ベッドの上にたたまれま布団に、体をもたれかけるように起きていた義兄の顔は、汗ばんで蒼白に見えた。
その体に酸素吸入と輸血をしてた。
「遠くから悪かったね。もう少しのところで命拾いをしたよ」
と笑みを含めて小声に喋った義兄。
爪の色も回復し、言葉もわかるようになり、これなら…と安堵の思いも束の間。
息苦しさは益々増し、酸素吸入器の絆創膏も滲み出てくる汗に妨害され、離すことのできない吸入器を持ち続けて、口にあてがった。
白衣の先生を見ては
「先生、俺を生かしておくれ、俺はきっと頑張るぞ」
と振り絞るような声で叫びながらも
「あとの事を頼むぜ」
と付け加えるのであった。
付き添う私たちは、ただ、先生と看護婦によりすがる他なかった。
しかし、その看護の甲斐もなく、病院での忍び難い一夜を明かしたのみで
夜の明けるのを待たんばかりに、祈る願いも空しく午前6時、45歳にして帰らぬ人となった。
人間にとって一度はありうる事ではあるが、あまりにも早い突然の大事に襲われ
夫にすがりつく姉の心は、目の前の事実を素直に受け入れられるまでに時間がかかった。
そして、茫然とする姉の心には、在りし日の数々の思い出が浮かび、心の中を掻き乱すのであった。
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数少ない家族3人の写真、この1年半後に冒頭の状況となる
別館ゆるみほ 